夜の勤行



米華(まいけ)、吉祥天に祈誓して五穀成就を祈念する儀式。2名の憎が右手に香水棒を、左手に白米・藁・白玉(満珠(ミッタマ)・千珠(ヒッタマ))を載せた朱塗りの膳を持って、相対して足で調子をとりながら、お互いかけ声を掛け合う。

ひとしきりのステップの後、白米や藁や白玉は撒かれて、それを参詣者が我先に拾っていた。私は、残念ながら何も拾う事が出来なかった。

和歌森 太郎編 くにさき によれば、・・・

僧侶2名が右手に香水捧を捧げ持ち、左手には藁・白米をのせたお膳を持ち、別に白玉(餅。満珠・千珠ともいう)2個をたずさえ、足で調子をとりながら、次のような文言を唱える。そして「最米(さいよね)二降ラスト成リニケリ」というところで、藁と白米を撒き、「白玉降ルトヤ大寺ニ」の句の時に白玉を撒き散らすのである。

  ヤ  吉祥天ノ御室ニハ
  ヤ  吉祥御願成リケレバ
  ヤ  富広園ノ谷ニコソ
  ヤ  法水ノ池ヲ湛エタリ
  ヤ  普水ヲ池二湛エテゾ
  ヤ  五穀ノ種ヲ潤ワセル
  ヤ  吉祥御願成リケレバ
    ヤ池ノ華蓮(はなはす)
    ヤ青蓮華
    ヤ白蓮華
  ヤ  白玉降ルトヤ大寺ニ
  ヤ  香華栄耀乍併
  ヤ  入来聴聞人々モ
  ヤ  牛王ヲ捧ゲテ請玉エ
  ヤ  牛王ヲ捧ゲテ請ケツレバ
  ヤ  無為ノ宝ハ充満ル
  ヤ  最米二降ラスト成リニケリ

  南無稽首五大普能尊 降伏三世軍茶利尊
  ?魔夜叉不動尊 各与若干諸眷属等
  周遍法界沙界 周遍囲繞舎護世
  南無稽首三世薄伽梵(三反)

つまり米華では、吉祥天に祈誓して五穀成就を祈念するのである。この時撒かれた白米を拾って食べれば病気をしない、藁を拾って頭にまけば頭痛がなおり、腰にまけば腰の痛みがなおる、白玉を拾えばサカシイ(健康な)といわれるので、参詣者はきそってこれらを拾おうとする。



米華の様子




開白の様子

開白(かいびやく)、僧二名(東泉寺住職、東光寺住職)が右手に香水棒を持ち、左手は腰に当てて向き合い、足でリズミカルに調子をとりながら法舞を演じ、開白の詞を申す。このとき、周りからその文言をそっと教えようとするが、しっかり覚えているらしく、余計なお世話と返していた。

和歌森 太郎編 くにさき によれば、・・・

調子をとりながら法舞を演じ、開白の詞を申す。
つづいて、「五方竜王]に「入護水中]を請い奉る。
つまり五方の水中を清浄ならしめ給えと祈念し、立役に用いる松明の火の安全を祈願するわけであるが、五方竜王とは、東方は青帝、南方は赤帝、西方は白帝、北方は黒帝,中央は黄帝の5竜王であると称せられる。この時には香水棒を右手に持ち、左手を腰にあてて僧2名が並んで立ち、東方竜王を奉請する時には東方を、西方竜王の時には西方を、というように向きを変える。なお、この「開白」の時に鬼が岩屋から出てくる。


米華、開白の節目はは確認出来なかった。たぶん、藁や米が撒かれるまでが米華であろう。私は、撮影の為に何も拾う事が出来なかった。


香水「香水」には立香水・賢劫香水(けんごうこうずい)(打香水)・阿弥陀香水(西方香水)・四方香水の4種がある。香水は真言秘密の法舞を仏に奉る重要な行法であるので、とくに院主と長老の僧が担当するしきたりである。立香水ではこの2名の僧が香水棒を両手に捧持して向き合って、不空羂索香水(ふくうけんじゃくこうずい)・滅罪香水・諸仏香水等の短径を読誦しながら、六調子で足をふみ、香水棒を振る。たとえば諸仏香水では、

 ヤ 帰命頂礼毘盧遮那盧遮那仏(きみょうちょうらいびるしゃなびしゃなぶつ)
 ヤ 達磨 ヤ 十方尊
 ヤ 十方悉知ノ?蘇波詞(おんそわか)
 ヤ 香水陀羅尼ノ?蘇波詞

といったぐあいに唱えるのである。
賢劫(けんごう)香水では釈迦香水・弥勒香水・薬師香水等の短径を唱え、香水棒を合わせたまま調子よく踊る。
阿弥陀香水では弥陀・最勝・吉祥・観音・帝釈・方広等の短径を唱えながら香水棒を打合わせて踊る。
四方香水では四方(多聞天・持国天・増長天・広目天)香水・毘沙門香水・伽藍香水を唱え、香水棒をすりあわせながら、講堂の廊下(外陣)をひとまわりする。なお、各短経の終句「ヤ香水陀羅尼ノ?蘇波詞」のところで香水棒を打合わせて、くるりと1回転する。香水を終って次の四方固に移るまでハヤシを入れる。



香水の様子(手前の朱の袴が院主)



差定には、香水 東光寺・成仏寺とあるが、各僧が入れ替わり立ち代り真剣な表情で所作していた。熱演に汗と香水棒の華が講堂に飛び散る。特に、東光寺住職と両子寺住職の張りきりが目立っていた。

大きく足を上げて講堂の床を下駄で打ち鳴らす。
冷え切った講堂内は僧侶達の熱演に熱くなった。



香水の様子(左、両子寺住職、右が東光寺住職)


香水を終って次の四方固に移るまで歯切れのいい賑やかな囃子が続けられていた。




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